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最高裁判所第三小法廷 平成6年(オ)978号 判決

上告人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

喜田村洋一

被上告人

株式会社産業経済新聞社

右代表者代表取締役

羽佐間重彰

右訴訟代理人弁護士

桒原康雄

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人喜田村洋一の上告理由について

一  本件は、被上告人の発行する新聞に掲載された記事が上告人の名誉を毀損するものであるとして、上告人が被上告人に対して損害賠償を請求するものであり、原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  被上告人の発行する「夕刊フジ」紙の昭和六〇年一〇月二日付け紙面の第一面に、原判決別紙のとおりの記事(以下「本件記事」という。)が掲載された。本件記事は、「『甲野は極悪人、死刑よ』 夕ぐれ族・Aが明かす意外な関係」「『Bさんも知らない話……警察に呼ばれたら話します』」等の見出しを付した八段抜きの記事である。

2  上告人は当時妻Cを殺害しようとしたとの殺人未遂被疑事件について逮捕、勾留されて取調べを受けていたところ、本件記事の大要は、(1) 右殺人未遂被疑事件についての上告人の勾留期間の末日である同月三日が迫っており、捜査機関の上告人に対する取調べも大詰めを迎えているが、上告人は頑強に右事件の関与につき否認を続けていると報じた後、(2) 夕ぐれ族ないし新夕ぐれ族なる名称でいわゆる風俗関係の営業をしているAが、同年初めころから上告人と相当親密な交際をしていた旨述べたとした上、「『甲野サンは女性に対して愛を感じないヒトみたい。あの人にとって、女性はたばこや食事と同じ。本当の極悪人ね。もう、(甲野と)会うことはないでしょう。自供したら、きっと死刑ね。今は棺桶に片足をのっけているようなもの』。A嬢は『極悪人』『死刑』といい切るのである。なぜここまでいえるのか。『仕事とかお金とか事件のこととか、〈こんなこと私に話してもいいのかしら〉と奥さんのBさんにも話していないようなことを話してくれました。内容はノーコメントですが、(警察に)呼ばれたら、話します』と非常に意味深である。」と記載し、(3) 続いて、捜査の状況につき、「甲野は『否認のまま起訴』という見方が警視庁内では今、最も強い。」と報じた後、「しかし、『あきらめるのは、まだ早い。最終日を狙え』という外部の声もある。」として「東京地検の元検事(中略)にいわせると、甲野は『知能犯プラス凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ』という。『弱点を探り出すこと。弱さは自信や強さの裏返しで、甲野は何人もの女性を渡り歩き、女性に自信をもっているはず。それに、いまヤツの唯一の心の支えは女房だろう。そこで、女房に甲野を裏切るように仕向ける。裏切ったとみせかける。〈女は簡単〉の自信が崩れ、大変なショックだろう』元検事は、このままなら甲野否認のまま起訴とみる。『甲野もはじめから、そのつもりだったろう。起訴になって保釈請求も予定行動。この二年間の金もうけは、保釈金集めだったのじゃないかな。しかし、裁判所は保釈しないよ、絶対に。こりゃ、甲野はショックだ。どんなにがんばっても、必ずこの保釈不許可でダウンだよ。』とみる。」と結ぶものである。

3  なお、上告人については、昭和五九年以来、右殺人未遂事件の嫌疑のほか、右殺人未遂の犯行後に妻Cを殺害したとの嫌疑等についても、数多くの報道がされていた。

二  上告人は、本件記事のうち、「『甲野は極悪人、死刑よ』」との見出し部分(以下「本件見出し1」という。)、「『Bさんも知らない話……警察に呼ばれたら話します』」との見出し(以下「本件見出し2」という。)及び本文中の「元検事にいわせると、甲野は『知能犯プラス凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ』という。」との部分(以下「本件記述」という。)は、いずれも、上告人が右各記載のとおりの人物であると断定するものであり、上告人の名誉を毀損するものであるなどと主張している。

これに対し、原審は、以下のように判示して、上告人の請求を棄却した。

本件見出し1等は、いずれも上告人の犯罪行為に関する事実についてのもので、公共の利害に関する事実に係るものであり、次に述べるとおり、被上告人については、これらに関し、名誉毀損による不法行為責任は成立しない。

1  本件見出し1は、上告人に関する特定の行為又は具体的事実を、明示的に叙述するものではなく、また、これらを黙示的に叙述するものともいい難い。その上、これがAの談話であると表示されていることも考慮すると、右見出しは、意見の表明(言明)に当たるというべきである。そして、この意見は、Aが、本件記事が公表される前に既に新聞等により繰り返し詳細に報道され広く社会に知れ渡っていた上告人の前記殺人未遂事件等についての強い嫌疑を主要な基礎事実として、上告人との交際を通じて得た印象も加味した上、同人についてした評価を表明するものであることが明らかであり、右意見をもって不当、不合理なものということもできない。

2  次に、本件見出し2は、Aが前記殺人未遂及び殺人各事件への上告人の関与につき何らかの事実又は証拠を知っていると受け取られるかのような表現を採ってはいるが、本件記事の通常の読者においてはAの戯言と受け取られるものにすぎないから、右見出しは、前記殺人未遂及び殺人各事件への上告人の関与につき嫌疑を更に強めるものとはいえず、本件見出し1と併せ考慮しても、これにより上告人の名誉が毀損されたとはいえない。

3  最後に、本件記述は、上告人に関する特定の行為又は具体的事実を、明示的に叙述するものではなく、また、これらを黙示的に叙述するものともいい難いから、右は、やはり意見の表明(言明)に当たるというべきである。そして、この意見は、東京地検の元検事と称する人物が、本件記事が公表される前に既に新聞等により繰り返し詳細に報道され広く社会に知れ渡っていた上告人の前記殺人未遂事件等についての強い嫌疑並びに上告人に対する捜査状況を主要な基礎事実として、同人についてした評価と今後の捜査見込みを表明するものであるから、右意見をもって不当、不合理なものということもできない。

三  しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  新聞記事による名誉毀損の不法行為は、問題とされる表現が、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させるものであれば、これが事実を摘示するものであるか、又は意見ないし論評を表明するものであるかを問わず、成立し得るものである。ところで、事実を摘示しての名誉毀損にあたっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、摘示された事実がその重要な部分について真実であることの証明があったときには、右行為には違法性がなく、仮に右事実が真実であることの証明がないときにも、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定される(最高裁昭和三七年(オ)第八一五号同四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁、最高裁昭和五六年(オ)第二五号同五八年一〇月二〇日第一小法廷判決・裁判集民事一四〇号一七七頁参照)。一方、ある真実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、右意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、右行為は違法性を欠くものというべきである(最高裁昭和五五年(オ)第一一八八号同六二年四月二四日第二小法廷判決・民集四一巻三号四九〇頁、最高裁昭和六〇年(オ)第一二七四号平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二五二頁参照)。そして、仮に右意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも、事実を摘示しての名誉毀損における場合と対比すると、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定されると解するのが相当である。

右のように、事実を摘示しての名誉毀損と意見ないし論評による名誉毀損とでは、不法行為責任の成否に関する要件が異なるため、問題とされている表現が、事実を摘示するものであるか、意見ないし論評の表明であるかを区別することが必要となる。ところで、ある記事の意味内容が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは、当該記事についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきであり(最高裁昭和二九年(オ)第六三四号同三一年七月二〇日第二小法廷判決・民集一〇巻八号一〇五九頁参照)、そのことは、前記区別に当たっても妥当するものというべきである。すなわち、新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分について、そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合には、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときにも、当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である。

2  以上を本件について見ると、次のとおりいうことができる。

(一)  まず、『甲野は極悪人、死刑よ』という本件見出し1は、これと一体を成す見出しのその余の部分及び本件記事の本文に照らすと、Aの談話の要点を紹介する趣旨のものであることは明らかである。ところで、本件記事中では、当時、上告人は、前記殺人未遂被疑事件について勾留されており近日中に公訴が提起されることも見込まれる状況にあったが、嫌疑につき頑強に否認し続けていたこと、Aはかねて上告人と相当親しく交際していたが、同人から、捜査機関の事情聴取に応ずるにも値すべき「事件のこと」に関する説明を受けたことがあること、その上で、Aが、上告人について、『本当の極悪人ね。(中略)自供したら、きっと死刑ね。今は棺桶に片足をのっけているようなもの』と述べたことが紹介されているのである。右のような本件記事の内容と、当時上告人については前記殺人未遂事件のみならず殺人事件についての嫌疑も存在していたことを考慮すると、本件見出し1は、Aの談話の紹介の形式により、上告人がこれらの犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに、同事実を前提にその行為の悪性を強調する意見ないし論評を公表したものと解するのが相当である。

(二)  次に、『Bさんも知らない話……警察に呼ばれたら話します』という本件見出し2は、右(一)に述べた事情を考慮すると、やはりAの談話の紹介の形式により、上告人が前記の各犯罪を犯したと主張し、右事実を摘示するものと解するのが相当である。右談話は、その後の両名の相当親密な関係に立脚するものであることが本件記事中でも明らかとされており、本件記事が報道媒体である新聞紙の第一面に掲載されたこと、本件記事中にはAの談話内容の信用性を否定すべきことをうかがわせる記述は格別存在しないことなども考慮すると、本件記事の読者においては、右談話に係る事実には幾分かの真実も含まれていると考えるのが通常であったと思われる。そうすると、右見出しは、上告人の名誉を毀損するものであったというべきである。

(三)  最後に、「この元検事にいわせると、甲野は『知能犯プラス凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ』という。」という本件記述は、上告人に対する殺人未遂被疑事件についての前記のような捜査状況を前提としつつ、元検事が上告人から右事件について自白を得ることは不可能ではないと述べたことを紹介する記載の一部であり、当時上告人については右殺人未遂事件のみならず殺人事件についても嫌疑が存在していたことも考慮すると、本件記述は、元検事の談話の紹介の形式により、上告人がこれらの犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに、同事実を前提にその人格の悪性を強調する意見ないし論評を公表したものと解するのが相当である。

3  もっとも、原判決は、本件見出し1及び本件記述に関し、その意見ないし論評の前提となる事実について、被上告人においてその重要な部分を真実であると信ずるにつき相当の理由があったと判示する趣旨と解する余地もある。

しかしながら、ある者が犯罪を犯したとの嫌疑につき、これが新聞等により繰り返し報道されていたため社会的に広く知れ渡っていたとしても、このことから、直ちに、右嫌疑に係る犯罪の事実が実際に存在したと公表した者において、右事実を真実であると信ずるにつき相当の理由があったということはできない。けだし、ある者が実際に犯罪を行ったということと、この者に対して他者から犯罪の嫌疑がかけられているということとは、事実としては全く異なるものであり、嫌疑につき多数の報道がされてその存在が周知のものとなったという一事をもって、直ちに、その嫌疑に係る犯罪の事実までが証明されるわけでないことは、いうまでもないからである。

これを本件について見るに、前記のとおり、本件見出し1及び本件記述は、上告人が前記殺人未遂事件等を犯したと断定的に主張するものと見るべきであるが、原判決は、本件記事が公表された時点までに上告人が右各事件に関与したとの嫌疑につき多数の報道がされてその存在が周知のものとなっていたとの事実を根拠に、右嫌疑に係る犯罪事実そのものの存在については被上告人においてこれを真実と信ずるにつき相当の理由があったか否かを特段問うことなく、その名誉毀損による不法行為責任の成立を否定したものであって、これを是認することができない。

四  そうすると、右とは異なり、被上告人につき本件見出し等に関しての不法行為責任の成立を否定した原審の認定判断は、法令の解釈適用を誤ったものというべきであり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件については、更に審理を尽くさせる必要があるから、原審に差し戻すこととする。よって民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

最高裁判所第三小法廷

(裁判長裁判官園部逸夫 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫 裁判官尾崎行信 裁判官山口繁)

上告代理人喜田村洋一の上告理由

上告人の請求を棄却した原判決には、法令の解釈適用を誤り、ひいて理由不備の違法があり、この違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

一、意見免責の不当性

1 原判決は、新聞又は週刊誌の記事による名誉毀損が問題となる事件で、名誉毀損に該当すると指摘される部分が、「事実言明」ではなく、「意見言明」である場合には、

(1) 当該記事が公共の利害に関する事項についてのものであり、

(2)①意見の基礎となる事実が当該記事において記載されており、かつ、その主要な部分について、真実性の証明があるか若しくは記事の公表者において真実と信じるにつき相当の理由があるとき、

又は、

② 当該記事が公表された時点において、意見の基礎事実が、既に新聞、週刊誌又はテレビ等により繰り返し報道されたため、社会的に広く知れ渡った事実若しくはこのような事実と当該記事に記載された免責事実からなるとき

(3)当該意見をその基礎事実から推論することが不当、不合理なものといえないとき

には、そのような意見言明は不法行為を構成するものではないと判示する。

しかし、(1)、(2)①、(3)が存在する場合に不法行為の成立を否定することは正当であろうが、(1)、(2)②、(3)の場合にも不法行為の成立を否定することは不法行為法の解釈を誤ったものである。

2 あらゆる意見には、その根拠となり、前提となる事実が存在する(原判決にいう「意見の基礎事実」)。意見は、その基礎事実が誤っていれば、どれほど推論自体が正しいものであっても、「正しい意見」とはいえず、名誉毀損を構成するのである。

(註)後述するとおり、米国での一部の見解のように、「事実」と「意見」を峻別し、前者は真偽の判定が可能であるが、後者については「正しい意見」とか「誤った意見」は存在しえず、意見が名誉毀損を成立させることはないという立場もありえよう。しかし、原判決もそのような極端な立場を採用しているわけではなく、たとえば基礎事実が虚偽であることを知りながら、敢えてそれに立脚して意見を述べた場合((2)①が存在しない場合)には名誉毀損の成立を認めるのである。したがって、この限度では「誤った意見」というものを考える余地があるのであり、本上告理由書では、名誉毀損を構成するか否かによって「正しい意見」と「誤った意見」という存在を認めることとする。

したがって、ある事実を基礎とする意見は、これが正しいか誤っているかは、専らこの基礎事実が真実であるか、少なくとも真実と信じるについて相当性があるか否かによって決定されることとなる(前記(1)の公共の利害に関するか否か、(3)の推論が正当であるか否かの点は暫く措く)。

すなわち、意見が名誉毀損を構成するか否かについては、基礎事実の真実性を離れて考えることはできないのである。

3 ところで、原判決は、(2)②において、基礎事実がマスコミ等で繰り返し報道されたため、社会的に広く知れ渡った事実である場合には当該意見は名誉毀損を構成しないとしている(ここでも、(1)の公共の利害に関するか否か、(3)の推論が正当であるか否かの点は暫く措く)。換言すれば、基礎事実が真実であるか、あるいは真実と信じるについて相当性があるか否かを論ずることなく、マスコミの報道によって社会的に広く知れ渡ってさえいれば、この事実に立脚して意見を述べることができるとするのである。

しかし、前述のとおり、意見の正否は基礎事実の真偽によって影響されるべきものであるから、基礎事実が社会的に広く知れ渡ってさえいればその真偽は関わりないとする判示が名誉毀損の成立に関する不法行為法の解釈を誤ったものであることは明白である。

なぜなら、意見の正否は基礎事実の真偽に依拠しているものであるから、ある意見が正しい(名誉毀損を構成しない)ものとして報道されれば、当該意見の読者、視聴者は、その基礎となった事実が真実であるものと了解し、その真実性を当然のこととして理解することとなる。すなわち、ある意見を報じるということは、その意見が正しい旨を主張するにとどまらず、その基礎となった事実が真実である旨を主張していることになるのである。このように、意見と事実とは密接な関係を有するものであり、報道機関がある意見を報じれば、読者・視聴者に対しては、その前提となった事実が真実である旨を確認させるという機能を果たすのである。このことは、基礎事実がマスコミによって広く報じられたものでない場合を考えれば、直ちに明らかであろう。ある人が、自分だけが知っていると称する事実を根拠としてある意見を述べ、これが報道されれば、読者・視聴者は、その意見は、推論の正当性のみならず、基礎事実の真実性をも主張するものとして理解されるのである。

ところで、一般的に言えば、マスコミ等で報道された事実は、正しいものもあれば誤っているものもある。繰り返し報道されたことによって、誤った事実が正しい事実に転化することはありえないのである。しかるに、原判決は、マスコミ等で繰り返し報道された情報は、その真偽を問題とすることなく、意見の根拠として利用することができるとしている。このような意見の公表が許され、これが名誉毀損を構成しないとすることは、即ちその意見の根拠たる基礎事実が真実であることを認めることになるのである。

したがって、このような「意見」は、当該意見が前提として、その基礎となった事実の真実性を主張するものであり、これについて「意見言明」としての保護を与えるべきであるとした原判決は、「事実」と「意見」に関する法的評価を誤ったものなのである。

二、 本件記事は事実言明である

1 原判決は、事実言明と意見言明を区別すべきであるとし、この両者を分かつ指標として次のように述べる。

「事実言明は、そこで用いられている言葉を一般的に受容されている意味に従って理解するとき、ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽が証拠により証明可能であるものをいい、他方、意見言明は、右以外の言明であって、多義的、不正確若しくは漠然としているため一般的に受容されている意味の中核を把握し難くその意味内容につき議論の余地のある言葉により表現されている言明、又はある特定の者の行為若しくは性質等についての評価若しくは論評を加えた言明をいう」(原判決一八〜一九頁)。

そのうえで、本件記事中の「甲野は極悪人、死刑よ」の部分につき、「『極悪人』という言葉が多義的、評価的なものであって、〔上告人〕についての特定の行為又は具体的事実を明示的にも黙示的にも叙述するものではなく、また、死刑は裁判所によって科されるものであって私人が科しうるものではないことは通常人のよく理解しているところであるうえ、本件タイトルには『夕ぐれ族・A』の言葉との表示がされていることに照らすと、本件タイトル中の右部分は、意見言明というべきである」(原判決二七〜二八頁)としている。

2 しかし、右タイトルを含む本件記事が「意見」であるとすることは、本件記事を全く誤読したものである。いうまでもなく、名誉毀損が成立するか否かの判断は、「一般読者の普通の注意と読み方とを基準として解釈」すべきであることは古くから貴庁が判断しているところである。(貴庁昭和二九年(オ)第六三四号、同三一年七月二〇日判決・民集一〇巻八号一〇五九頁)。そして、その判断にあたっては、見出し、リード、本文など記事の全体を対象とすべきであるとともに、記事が掲載された媒体の特性(新聞か週刊誌か、報道を主体する媒体か娯楽を主眼とする媒体か等)、さらには一般読者が当時記事を読むうえで前提としている社会的文脈をも考慮すべきである。

これを前提として本件記事を読むならば、その意味するところは明白である。すなわち、本件記事が掲載された一九八五年一〇月二日(一〇月一日発行)は、上告人の勾留期限が一〇月三日であることを前提とし(本件記事は、中見出しで「あと二日で拘置期限切れ」と報じ、リード部分の冒頭で「甲野太郎(三八)の起訴を三日に控え」と報じている)、捜査もいよいよ大詰めを迎え上告人が自白するかどうか、上告人を起訴できるかどうかが焦点となっていることを伝えるものである。そして、これらの根底にあるのは、一般読者が有する「本当に甲野(上告人)がやったのか」、「甲野が犯人なのか」という疑問であり、本件記事はこれに対して答を与えようとしたものなのである。

3 なるほど、確かに「極悪人」という表現は多義的な表現であり、ある人物にこの表現が当てはまるか否かを判定する数学的な公式などというものは存在しない。しかし、ここで問題になっているのは、抽象的にある人間が「極悪人」かどうか判定しうるか否かではない。ロス疑惑の主とされ、逮捕されながらも否認を続けていた上告人を「極悪人」と呼ぶことは、本人の一般的な人格を評したものではない。一般読者は、そのようなことには興味も関心もないのであり、知りたいのは、「甲野が殴打事件、銃撃事件の犯人なのか」ということなのである。これを知りたい一般読者にとっては、「上告人は極悪人である」という表現は、「甲野が犯人だ」という内容として理解されるのである。

「死刑」も同じである。死刑を科すのは裁判所であり、私人が科すものではないから、「甲野は死刑よ」という見出しの表現は、「甲野は死刑になるだろう」あるいは「甲野は死刑に処せられるべきである」というAなる女性の予測ないし意見であることは確かであろう。しかし、一で述べたとおり、意見の前提には事実が存在する。どのような意見も、「前提たる事実は真実である」との言明を含んでいるのである。したがって、「甲野が死刑になるだろう」あるいは「甲野は死刑に処せられるべきである」という予測ないし意見は、当然の前提として、「甲野は犯人だ」という命題が正しいことを主張しているのである。犯人でなければ死刑に処せられることなどありえないのであるから、一般読者は、「甲野は死刑よ」という表現の根底に「甲野が犯人である」というメッセージが存在することを認識するのである。

4 右に見たとおり、本件記事の主見出しである「甲野は極悪人、死刑よ」という表現は、「甲野は犯人だ」ということを意味している。これと同様のことは、本件記事中の「甲野は『知能犯プラス凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ』」という表現についてもいいうる。原判決は、「『知能犯』、『凶悪犯』、『手ごわさ』という言葉は、いずれも多義的、評価的な言葉であって、〔上告人〕についての特定の行為又は具体的事実を明示的にも黙示的にも叙述するものではないから、意見言明というべきである」(原判決三一頁)として、名誉毀損の成立を否定した。

しかし、ある人物が「知能犯」であるかどうか、「凶悪犯」と呼べるかどうか、「手ごわ〔い〕」と言えるかどうかは、論者によって意見が異なることがありえようが、名誉毀損の関係で問題となりうるのは、「知能犯」あるいは「凶悪犯」かどうかということではない。「知能犯」、「凶悪犯」という表現は、これを読む一般読者にとっては、上告人が殴打事件、銃撃事件の犯人であり(凶悪犯)、完全犯罪を狙って保険金を受け取った犯人である(知能犯)ことを意味しているのである。

「手ごわさ」も同様であり、上告人が犯人であるにも関わらず自白せずに否認していることを評した言葉なのであり、上告人が犯人であることを当然の前提とした表現なのである。

5 右に見たとおり、本件記事中の「甲野は極悪人、死刑よ」あるいは「甲野は『知能犯プラス凶悪犯で、前代未聞の手ごわさ』」という表現は、いずれも「甲野が殴打事件、銃撃事件の犯人である」ことを述べているのである。

ところで、「ある人物がある事件の犯人である」という命題は、原判決が「事実言明」の定義として掲げる「ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽が証拠により証明可能であるもの」に該当することは明らかであろう。これを否定することは、刑事裁判の意義を否定することになるのである。

したがって、右に掲げた本件記事の各箇所は、「意見言明」ではなく「事実言明」なのである。

三、 Aの事実言明

1 原判決は、本件記事の主見出しである「『甲野は極悪人、死刑よ』」という言葉は、Aなる女性が上告人についてした評価であることが明らかであると述べ(原判決二八頁)、その評価に関する主要な基礎事実は、「本件記事が公刊される前に既にマスメディアによって繰り返し詳細に報道され社会に知れ渡ったC殴打事件及びC銃撃事件等に対する〔上告人〕の関与についての強い疑惑」であるとしている。

2 しかし、ある時点までにマスコミで広く報じられた事実のみを前提として、これに対する「意見」が表明されるという記事が作成されることは殆どない。もちろん、社会に存在する様々な問題について、これに対して専門家ないし評論家と言われる人が、解説をし、あるいはこれに対する意見を述べるということはありうる。

ところで、本件で取り扱われているAなる女性は、評論家でもなく、刑事法の専門家でもない。そのような女性が「甲野は極悪人だ。死刑に処すべきだ」と述べたところで、その「意見」がそれまでに広く報じられた事実だけに依拠しているのであれば、そのような「意見」には何ら報道する価値がないのである。

しかるに本件で、Aの「意見」が全国紙たる「夕刊フジ」の一面トップを飾っているのは、正に彼女が、他人には知られていない「甲野が犯人であることを示す事実」を彼女が知っているとされたためである。

このことを示すのは本件記事の末尾であり、そこでは、内容こそ「ノーコメント」とされているものの「仕事とかお金とか事件のこととか、“こんなこと私に話してもいいのかしら”と奥さんのBさんにも話していないようなことを話してくれました。……(警察に)呼ばれたら、いつでも話します」というAの言葉が引用されているのである(傍線上告人代理人)。

このように、Aは、「事件について、社会一般の人はもちろん、上告人の妻でさえ知らないようなことを知っているのであり、その内容は、今の段階では公表できないが、警察に伝えるべき性格のものである」ということを述べているのである。これは、内容の詳細は明らかにしないものの、甲野が犯人であることを裏付けるような事実が存在することを明示的に主張したものであり、これが原判決にいう「事実言明」であることは明らかであろう。

そして、本件記事は、「内容はノーコメント」であるとして、その事実が極めて重大な内容であることを示唆し、さらに、上告人がそのような事実をAなる女性に打ち明けるような状況にあったことを示すために、両者の関係が相当に親しいものであり、冗談を言い合うような状態であったことを、記事の前半部分で詳細に伝えているのである。

3 原判決は、本件記事の前記の箇所は、「『夕ぐれ族・A』が、C殴打事件及びC銃撃事件に対する〔上告人〕の関与について、なんらかの事実あるいは証拠を知っていると受け取られうるかのような表現をとっているが、本件記事の通常の読者は、夕ぐれ族なる女の戯言としてしか受け取られないようなものに過ぎない」(原判決二九〜三〇頁)として、名誉毀損の成立を否定した。

しかし、「奥さんのBさんにも話していないようなことを話してくれました。……(警察に)呼ばれたら、いつでも話します」との箇所は、明らかに事実を述べた箇所である。「戯言」とは、「たわむれにいう言葉。ざれごと。冗談」の謂であるが(広辞苑・第四版)、本件記事を読む一般読者が右の箇所を冗談と理解することはありえないことである。

そもそも、広く国民が関心を寄せている犯罪事件の報道において、全国紙の一面トップに単なる冗談が掲載されるわけはないのであり、また記事の体裁からみてもこの発言が冗談であることを匂わせるような表現は一切存在していない。その事実は、「警察に呼ばれたら話す」とされている程のものなのであり、その中身が冗談であるはずはないのである。

したがって、一般読者は、「甲野は、親しかったというAに、事件の関与を示すようなことを言ったのであろう」と考えるのであり、「警察に言う前には内容を公表できないというのであるから、極めて重大な中身なのであろう」という印象を持つのである。

4 以上のとおり、本件記事は、Aなる女性が、「事件に関して、誰にも知られていない事実を甲野から聞かされて知っている」ことを報じたものである。しかも、その事実とは、本件記事中では、「A嬢は、『極悪人』『死刑』といい切るのである。なぜここまでいえるか」としたうえで紹介されている。すなわち、その事実とは、上告人が「極悪人」であり「死刑に処せられるべきである」とする意見の根拠となるようなものなのであるから、上告人が殴打事件、銃撃事件に関与していること、換言すれば上告人がこれらの事件の犯人であることを示すような事実だとされているのである。

5 右に見たとおり、本件記事は、具体的な内容こそ摘示していないものの、上告人が犯人であることを明らかにする事実が存することを述べ、そのうえで、「甲野は極悪人、死刑よ」という意見を述べているのである。これが、「既に新聞、週刊誌又はテレビ等により繰り返し報道されたため、社会的に広く知れ渡った事実」を基にした「意見」ではないことは明らかである。

原判決は、この点において本件記事の意味を誤ったものである。

四、 米国法からの示唆

1 日本の名誉毀損法は、米国法からの影響を受けていることは明らかである。ところで、意見と名誉毀損に関しては、最近、米国連邦最高裁判決(Milkovich v. Lorain Journal Co., 497 U.S.1(1990))が下され、この問題について新たな発展が見られたところであるので、簡単にこれについて論じることとする(詳細は、喜田村洋一「名誉毀損訴訟で、いわゆる『意見特権』は存在しないと判示した事例」ジュリスト一〇三四号一三一頁を参照されたい)。

2 右事件で被上告人(新聞社)は、「事実」ではなく「意見」と分類される陳述については、修正一条により名誉毀損から全面的に免責されるべきであると主張した。

しかし、レーンキスト長官の執筆した法廷意見は、次のように述べて、この考えを排斥した。

「意見が免責されるべきであるとする考え方は、『意見』の表明には客観的な事実の主張が含まれることが多いということを無視するものである。誰かが、『私の意見では、ジョーンズは嘘つきだ』と述べたときには、話者は、ジョーンズが嘘をついたとの結論を導く事実を知っていることを暗示しているのである。また、仮に話者が意見の根拠となる事実を述べていたとしても、その事実が不正確ないし不十分であり、あるいは事実に対する話者の評価が誤っている場合には、意見表明には誤った事実の主張が含まれることもありうる。ある陳述を意見という形式にしても、このような意味合いが消滅するわけではない。『私の意見では、ジョーンズは嘘つきだ』という陳述は、『ジョーンズは嘘つきだ』という陳述と同じ程度に信用を傷つけるのである。『私は思う』という語を付加すれば常に名誉毀損を免れるというのは不合理である」

そして、ある陳述が「意見」であるというだけでは名誉毀損の責任を免れるものではないと判断したのであり、この点は最高裁の全員一致の判断であった。

3 右のように、連邦最高裁は、一般的な「意見特権」は否定したものの、ある種の意見(虚偽の立証できない意見及び事実を述べていると解し得ない意見)は名誉毀損を構成しないと判断したため、この限度で「事実」と「意見」を区別することが必要になっている。

この区分としては、リステイトメント(Restatement(Second)of Torts,§566〔1977〕)の立場があり、ここでは、「ある意見中でその根拠となった事実が全て明らかにされている場合には、その意見は『純粋』意見として保護されるのに対し、当該意見中に、その根拠である名誉毀損的な事実で開示されていないものがある場合には、その意見は『混合』意見として保護されない」とされる。

また、もう一つの有力な立場は、オールマン判決(Ollman v. Evans, 750 F.2d 9 70,(D.C.Cir. 1984)(en banc))で示された考え方であり、状況全体、特に(1)対象となる表現の通常の使用方法・意味、(2)当該表現が真偽を判定しうるか否か、(3)当該表現がなされた文脈、(4)当該表現のなされた広い社会的文脈、を考慮の対象とすべきとする。

4 ところでリステイトメントの考え方を適用した場合には、本件記事には、意見の根拠とされる名誉毀損的な事実で開示されていないもの(「(警察に)呼ばれたら、話します」という事実)があるのであるから、これが「純粋」の意見としての保護を受けないこととなる。

また、オールマン判決の立場をとるとしても、既に述べたとおり、本件記事をその当時の社会的文脈において解するならば、「極悪人」、「死刑」、「知能犯」、「凶悪犯」という表現が、いずれも上告人が殴打事件、銃撃事件の犯人であることを意味している。また、「極悪人」、「死刑」の根拠となっている「(警察に)呼ばれたら、話します」という事実は、真偽を判定しうるものであることは明らかである。

このように、本件記事は、「意見」と「事実」の判定について、米国で有力とされる二つの方法のいずれを採用した場合であっても、「意見」ではなく「事実」を含む陳述であると解されるのである。

五、 結論

以上に述べてきたところから明らかなとおり、本件記事は、上告人に関する意見を含むものであるが、その意見は「上告人が犯人である」旨の事実言明を含むものである。また、その意見の根拠とされる事実は、単にそれまでマスコミで報じられたものだけでなく、Aが上告人との間の個人的な体験として有する事実が存在する。

したがって、このような記事について名誉毀損の成立を否定した原判決は、不法行為法の解釈を誤ったものであり、取消しを免れないものである。

以上

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